2011年3月10日木曜日

ひきこもりだって、良いじゃない。

大下ゼミ読書会第39回
吉本隆明の『ひきこもれ』
ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)
ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)吉本 隆明

大和書房 2006-12-10
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 読むのに骨が折れる本が続いたところ、今回のは低カロリー本。1時間足らずでさらっと読めた。
とはいえ示唆に富んだ一冊。今週は欠席なので、以下雑感を記す。


*


 外へ出て他人とコミュニケーションを取るばかりでなく、内面へひきこもるためのひとりの時間を持ち、自分に通じる言語(他人に伝えるための、感覚的な言語と対比して、第二の言語、または内蔵の言葉と本書では表現されている)を獲得していくことが重要だと吉本は説く。

まず冒頭、吉本は報道などに見る。「社交的>引きこもり」という価値前提に疑義を投げかけ、
 テレビなどでは「ひきこもりは問題だ」ということを前提にして報道がなされ(略)
 「ひきこもっている人は、将来職業につくのだって相当大変なはずだ。社会にとって役に立たない」と考えます。
 でも、本当にそうでしょうか。
 僕は決してそうは思わない。世の中の職業の大部分は、ひきこもって仕事をするものや、一度はひきこもって技術や知識を身につけないと一人前になれない種類のものです。(略)
 家に一人でこもて誰とも顔を合わせ酢に長い時間を過ごす。まわりからは一見無駄に見えるでしょうが、「分断されない、ひとまとまりの時間」をもつことが、どんな職業にもかならず必要なのだとぼくは思います。(pp.23-24)

と、「社会」に出て働き活躍するためにも、ひきこもるまとまった時間を持つことが必要なのだと言う。


 特に幼少期の子育てや教育において、内にひきこもり、思考を掘り下げたり物事に没頭する時間の重要性を強調している。
 子育ての時に気をつけていたのは、ほとんどひとつだけと言っていい。それは「子どもの時間を分断しないようにする」ということです。(略)
 勉強している間は邪魔してはいけない、というのではない。遊んでいても、ただボーッとしているのであっても、まとまった時間を子どもにもたせることは大事なのです。一人でこもって過ごす時間こそが「価値」を生むからです。(pp.25-26)


自分の時間をこま切れにされていたら、人は何ものにもなることができません(p.27)との言葉が読んでいて印象的だった。

確かに現代ではTwiterやFacebook、電話にメールと、普通に日常生活をしているだけでも、時間を分断する「ノイズ」だらけであり、まとまった時間を確保することは非常に難しくなってきている。

そういえば、2月6日の芦田先生の集中講義の資料スライドで特に印象的だったのが、若者とは人間のこと、若者だけが「事柄」に集中することが出来るというような言葉。

もちろん僕自身、TwitterやFacebookといったソーシャルメディアには親和的だし、「教育に悪いからネットは規制しろー」なんて馬鹿なことを言うつもりは毛頭無い(笑)
仕事に関しては、これからの時代の人々は否応無しに「ノイズの中で仕事をする能力」が求められるだろう。昔のように「会議中は携帯電話に出ないものだ」なんていう常識も廃れ、常時オンラインで、複数タブでTwitterやFacebookを開いたまま会議や作業をする傾向は強まっていくに違いない。多量のノイズは所与の前提として慣れ、効率的に情報をさばいていくスキルは必須だと思う。

ただ問題なのは、<社会>が<家庭>や<学校>の領域にまで浸食してしまったために、子どもや学生がひきこもって内省を重ね「価値」を生み出し、若い子どもから「何ものかになる」以前の段階でノイズだらけの社会にさらけ出されて自分の時間をこま切れにされてしまう危険性が強まっていることである。

「オンライン自己」現象が深刻な問題になるのはまさに若者の教育においてだろう。ひきこもって内省し、ストックを溜め込む時間を確保出来ないまま、常時オンラインで社交を求められる。大学が自律的な機関として塀の中で学生を教育することも、まさに若い時代に社会の潮流と関係のないところで、若者たちが深い内省をしながら第二の言語または内蔵の言葉を育てるためだ。

人間は社会的な動物ではあるが、「社交」と反対の極にあり、人間にとって同様に重要な「内省」の時間を人生のどの段階でどう担保するかが重要な課題になっていると僕は感じる。


 教育の話に少しそれたが、ともかく人間にとってひきこもることは決して異常で、問題な行為なのではなく、むしろ人間であるために必ず必要なことなのだということだ。

「コミュニケーション力」やらなんやら社交スキルばかり学生に強く要求する採用側の観点には、就活をしている同世代の人達なんかうんざりしていることだろうと思う。

人間を見る時に、「社交」という片方の極しか評価軸を彼らは持っていないからだ。

引っ込み思案はだめで、みんな社会に出ないと、との前提から、ナーバスな正義感にかられて動き出すような、「引き出し症候群」の素人はおっかないとも吉本は語る。
 テレビを見ていたら(略)もとはスーパーの店長だった人が、ひきこもりの人を集め、普通の人たちと話し合ったり一緒に遊んだりする場をもうける活動をやっている。店を辞めてボランティアでやっているというのです。
 よしてくれ、と言いたくなりました。
 スーパーの店長として仕事をしてきた人が力を発揮できるのは、新鮮で安い商品を仕入れるとか、商品が売れるように品物を並べ替えるとか、そういうことでしょう。ひきこもっている子どもに対してどうするかが専門では決してない。(pp.29-30)


「外に出てコミュニケーションがうまく出来る方が良い」なんていう自分の価値尺度を全ての人に無理矢理当てはめようとすることほど暴力的なことは無いと、僕も思う。

ひきこもりであったり、引っ込み思案や鬱気質であったりする人は、それだけで「自分はダメだ」なんて思う必要は全く無い(僕自身も、躁鬱気味なところがある)。

「社交」と「内省」の両極、グラデーションの中で個々人の様々な性格が定位されている。誰もがどちらか片方に微妙に偏っていたりするもので、どこからが「異常」でどこからが「正常」なのか、究極のところ誰にも判断はつかない。少なくとも言えることは、「引きこもり」即ち「異常」などという断定は絶対に出来ない、ということだ。


*


 さて、ひきこもることの積極的な意味合い、コミュニケーション万能論の危うさについて記したわけだが、話はそこでは終わらない。引きこもりは悪いことではないが、だからといって引きこもり続けたり、同じ仲間で閉鎖的に集まりを作って社会と断絶することを吉本は決して肯定しない。閉じられた堂質的な仲間だけで生きるのではなく、一般社会の中で引きこもり的な生き方を貫くことを薦める。

少し長くなるが第二章「不登校について考える」の一部をそのまま引用する。
前に述べたように、不登校の子どもたちは異常でもなんでもなく、学校の欺瞞性のようなものを鋭く見抜いている場合が多いといえます。ある意味でとてもまっとうな感受性をもっているのです。
 けれども、だからといってかれらが学校にまったく行かなくなってしまうことがよいことだとは、ぼくは思っていません。不登校の人たちだけでグループを作ってかたまってしまうことも、やめたほうがいい。
 ひきこもりの人を社会に引き出そうという人たちがいるのと同様に、不登校の子どもたちだけを集めて、かれらを何とか「改良」していこうというような人たちがいます。でも、そういうやり方は駄目だと思うのです。
 不登校の子どもたちは、優秀で判断力が優れていたりしますから、学校なんていうものとは縁を切って、同類同士で集まった方が利点があると考えるかもしれません。
 でも僕は、一般社会の中にいて、不登校的な生き方を貫いていくべきだと思うのです。自分たちが優れていると思っている人も、その逆の人も、一般の人たちとは別に自分たちだけの社会を作ろうとは思わないほうがいい。
 なぜかというと、閉じられた集団に身を置くことは決していいことではないからです。スタートの時点から、一般社会と自分を区切るようなことをしてはいけない。自分を特別な位置に置いてしまうと、世の中にはいろいろな人がいて、考え方は違ってもみんな平等なんだ……ということが成り立たなくなってしまいます。
 それに、同質の者が集まって作る世界は傷つくこともなく快適ですが、先が閉じています。発展していく余地がないのです。いくら立派な理由があって作った集団でも、始末におえないものになってしまう恐れがあります。
 確かに学校にいると、くだらないことや嫌なことがたくさんあります。でも、前にも述べたように、学校などというものは、適当にさぼりながら何とか卒業するくらいでいいのです。重たく考える必要はありません。どうしてもみんなと一緒にやらなくてはいけない最小限のことだけをやる。その上で、自分の仲の不登校な感覚を失わずにやっていけばいいのです。(pp.73-76)


正論だと思う。

同質的で排他的な集団だけに身を置くことは、快適であり、時にはその仲間意識が麻薬のような恍惚感をもたらすこともある。しかしその安全な空間だけにひきこもっていては、人には様々な違いがあるということが理解出来ず、平等な立場で共に社会を作っていくという人間の営みが成立しないのだ。

この話はひきこもり集団に限ったことではない。

個々の詳細な議論に立ち入るつもりはないが、「リア充」と「非リア充」、「意識の高い学生」と「意識の低い学生」、「若者」と「年寄り」などなど…二つの対立軸を置いて、一方を自分たちとは相容れないエイリアンとして排斥する、その上で自分たちだけの安全圏を形成して遠くから「奴ら」を攻撃しながら溜飲を下げる。そうした手法では永遠に他者理解も集団の発展もあり得ない。

グラデーションの中で様々な人同士が交わるのが「社会」であり、思い通りにならない異質な人間とも調整しながらお互いよろしくやっていくことに「社交」の意義がある。


ひきこもることは異常でも悪いことでもない。しかしだからといってそこだけに安堵することも良いことではない。自身の気質を受け入れた上で、一般社会の中でなんとか調整しながら生きていくべきだと吉本は説いている。


 とはいえ、ひきこもり気質の人が一般社会の中に身を置くことは骨の折れることかもしれない。
そこで吉本自身は、祭りなどの賑やかな場所に身を置き、大勢の中の孤独に安堵するという自らの処方箋を紹介している。
 お祭りというのは、賑やかな場所に身を置くことができて、しかしあまり顔見知りとは会わなくて済む。そういった、大勢の中で一人ぼっちになれる状態が、僕には一番安定感があったのです。だから当時は、近所にある神社という神社のお祭りには忘れずに行っていた。金魚すくいか何かをして、好き勝手にぶらぶら歩いて、誰とも口を利かずに帰ってくるのです。(p.136)

少し似たような感覚がある。
僕は最近、自分のことを「社交的な根暗」と表現しているのだけど(笑)
ハレの日、お祭りや宴会に身を置き、それを一方で楽しみながらも、自分の頭の斜め上あたりに、どこか醒めた、透徹した目線でその自分を眺めているもう一人の視点があって、その自分が社交空間の中でも孤独を守っているからこそ、僕は安定して生きていられるのだと思う。


 人は一人では生きてゆけない。社会の中に身を置き、協力し合うことで生存することが出来る。その中で自分一人の時間、孤独にひきこもり内省する時間や方法を持つこと。オンライン全盛のこの時代では難しいことになってきているが、だからこそ重要なことだと思う。


*


 大下ゼミ読書会、第36,37,38回の山崎正和『柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 』、梅田望夫『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』、山崎正和『社交する人間―ホモ・ソシアビリス』という流れの中で来た一冊なので、最近の自分の問題意識をうまく整理してもらえて良かった。

さらっと読めるのでみなさんも良かったらどうぞ。
ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)
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