2011年2月3日木曜日

読書レポートー山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』

大下ゼミ第36回読書会
山崎正和の『柔らかい個人主義の誕生』
柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 (中公文庫)
柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 (中公文庫)山崎 正和

中央公論社 1987-03
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 「黄金の60年代」から「不確実性の時代」と言われる70年代を振り返り、80年代以降の「顔の見える大衆社会」における新しい個人主義の萌芽を予想した本書。書かれたのは昭和59年。今読んでも非常に示唆のある本。





 60年代が黄金期と見なされたのは、それがあまりにも印象鮮明で分かりやすい上昇志向の時代だったからだ。「経済成長」を旗印に、東京オリンピックや大阪万博という「国際化」の象徴的イベントをやってのけ、さらにはテレビ・新聞の普及率が高まり「情報化」が進展した。政治・外交においても1969年に日米首脳会談で沖縄返還の合意を取り付けるという、国家が華々しい活躍を見せた時代だった。

言い換えれば、60年代は日本の近代化プロセスが頂点を迎えた時代であったと言える。近代化とは、国家が目的指向集団に変わることであり、国民が国家という想像の共同体のもとに具体的課題を共有して結集することである。40年代に敗戦を迎えた日本は、戦後復興、経済成長という大目標のもと国民全体が勤労に努め、飛躍的な成長を進めて来た。多くの分野においてその「努力が報われた」黄金時代、それが60年代だったのだろう。

こうした近代化=産業化時代においては社会の流動性や人々の生き方の多様性は低かった。家庭、学校、会社、人生それぞれのステージにおける主たる帰属集団が明確で、またそれが個人の人生やアイデンティティによって支配的であった時代、人々は帰属集団の中で勤勉に単一の役割を演じることで(演じるという意識さえなく)アイデンティティを保持していたという。

目的指向的で単一の生産組織のへの帰依(Commitment)と、そこでの役割と軌を一にする自己認識の一貫性(Integrity)を特徴とする、言わば「硬い個人主義」の時代が産業時代であると言える。そこでは人々の自己意識も明確な帰属や役割に基づいており疑問を差し挟む余地も小さく、自己の位置付けや解釈に際して「他人」の入り込む余地も少ない。



 さて、そうした上昇志向の60年代から一変、「不確実性の時代」と呼ばれた70年代。オイルショックやドルショックによって日本経済の60年代の繁栄が脅かされたということもあるが、そうした単一の事件に留まらず、社会全体として、国家・職場・家庭のイメージが縮小し、人々の生き方も多様化を進め出した時代であった。

60年代には最大限に国力や領土を拡大してしまったため、政治・外交において国家が華やかに働く余地を失い、国家全体として普遍的なスローガンを掲げて国民全体を動員することの限界を迎えてしまった。そのため国家は日常的な技術集団へと変質し、日常的な実務の世界で物事を処理することが「面白くない」国家へと縮小してしまった。

更には70年代〜80年代にかけて、労働時間の減少、週休や余暇の増加、核家族化の進展などが、個人の人生において家庭や職場が占める割合を縮小させ、平均寿命が伸びて社会が高齢化も進み、人々の生涯における家庭・職場外の自由な時間の量が増加したことが、個人をより個別化する方向に働いたという。

人間の若さは、一般に社会を等質化し集団化させる条件であるのにたいして、老いの経験はただそれだけで、すでに個人の運命を多様化し個別化する方向に働く。(p.36)
と、筆者は言う。

加えて、等質的なはずの青春時代さえも、社会の成熟・経済の発展に応じて変貌を見せたという。

今日の青年には、「食」欲に駆られて政治的集団行動に走る動機も乏しく、「性」欲の餓ゑから、流行の恋愛小説に共同の幻想を求める衝動も切実ではない、といっても誇張ではあるまい。(p.40)

社会が豊かになったため、青年時代においても生活する上での基本的な欲望が大幅に満足され、それが青年を目的指向的に走らせる力が弱まったという。これにより、若者世代の生き方の多様化も進展し、それ自体が多様な中年、老年以上の世代人口も増加したことから、一枚岩に横で連帯した共通の世代意識というものも弱まっていく。

個別のメディア報道に対して思うところがある人もいるだろうが、これを見れば70年代より更に社会の成熟度合いが増した現代においては、政治の停滞、若者の「草食化」、「内向き志向」、晩婚化といったものは、総論としては不可避の現象と言えるかもしれない。

高齢世代の既得権益や若年層への負担増から来る世代間対立も問題となっているが、悲観的な見方をすれば高齢世代に対抗する「若者世代」としての一致団結した闘争を試みることー少なくとも安保闘争のような盛り上がりを再現することは、難しい社会になっていると言えるだろう。

国家単位の分かりやすい目標を失った70年代においては、60年代との落差がより一層感じられたのだろうが、社会は70年代以降現代まで一貫して多様かつ不確実な時代であり続けていると言えるだろう。



 さて、60年代のような勢いを失った日本社会だが、筆者はそこに新たな形の個人主義ー「柔らかい個人主義」というものの可能性を見る。

オイルショック等の苦難に見舞われた70年代を経て、第三次産業であるサーヴィス業が成長した80年代は「脱産業化社会」を迎える。ダニエル・ベル教授の言葉を引用して、「脱産業化社会」を「人間相互間のゲーム」によって運営される社会とし、人間が機械による製造業を中心として「人工的な自然にたいするゲーム」を行なっていた伝統的な「産業化社会」と対置する。

「人間相互のゲーム」と位置づけられるのは、「脱産業化社会」においては、生産より消費が優位になり、消費を中心とした生活は必然的に他者の存在を前提とするからだ。

ここで筆者は、消費社会を「より早く、より多く、よりしばしば」という効率主義的な行動原理に基づく生産優位の社会と区別し、下記のように消費行動を位置づけている。

要するに、人間の消費行動はおよそ効率主義の対極にある行動であり、目的の実現よりは実現の過程に関心を持つ行動だ、といふことが明らかになったといへる。いはば、消費とはものの消耗と再生をその仮りの目的としながら、じつは、充実した時間の消耗こそを真の目的とする行動だ、といひなほしてもよい。(p.167)

例えば牛肉を買ってすぐ食べてしまうのではなく、手間ひまかけて調理し、良い食器を揃えて、可能な限り牛肉というものを消耗し切るまでの時間を引き延ばしながら、その物質的欲望が満たされる過程を楽しむ精神的欲望に支えられているのが消費行動だということだ。

価値観や生き方が多様化し、近代的な確固たる自我通念が疑わしくなった時代に隆盛した消費社会において、人々は自分の物質的欲望が満たされる様をもう一人の自分=「他人」が外から確認しながら消費行動を行なう。このもう一人の自分=「他人」も自我一部であり、消費社会においては自我の成立そのものが他人の存在を必要とするのだと、筆者は指摘する。

更には、
そして、もし、消費する自我がかうした構造を持つものだとすれば、やがて、それが消費の場所において現実の他人を必要とし、その他人による賛同を求めることになるのは、自然ななりゆきであろう。じつは、満足を引きのばし、それを確認するのは孤独で不安な仕事であって、自我の内部の「他人」は、この仕事を自分ひとりで進めるのは心もとないからである。
と、消費行動とは骨の折れる難事であるゆえに、自分の中にあるもう一人の自分という他人だけでは足りず、現実の他人を自我形成に必要とするのだと筆者は言う。

それゆえ人々は社交的になり、いくつかの小集団に多元的に所属しながら「顔の見える」他人との交わり=「人間相互間のゲーム」のなかで消費をし、自己を確認する。

自我の成立過程で様々な他者の存在を前提とする消費社会。内部に他者の存在を容認せず、自分の職業や生産活動への従事を通して揺るぎない自己を確立せんとする近代産業人の「硬い個人主義」と対置して、

ライオネル・トリリングの言葉を借りれば、ひとは生まれつきの「人柄(パーソナリティ)」を超えてその外側に達、想像のなかでみづから複数の役柄を演じたときに、そしてまた、自分が他人にとって何かしら興味ある存在だと気づいたときに、初めて歴史のなかでの真の「個人(インディヴィジュアル)」になったのであった。(p.142)

生まれながらの特性に固執し、帰属すべき世界をひとつしか持たず、頑固に自分でありつづけようとするのは、個人として成熟するまへの幼児の特性であらう。おとなの個人性とは、あくまでも柔軟な態度の同一性のことであり、演じられたいくつかの役の背後で、つねに静かに醒めてゐる俳優の心の同一性のことなのである。(p.142)

ここでいふ「顔の見える社会」こそ個人主義の基盤であり、歴史的に見ても、真の個人がまさに誕生する場所だ、といふことである。けだし、個人とは、けっして荒野に孤独を守る存在でもなく、強く自己の同一性に固執するものでもなくて、むしろ、多様な他人に触れながら、多様化して行く自己を統一する能力だといえよう。(p.141)

などと、筆者は人々の「多様化して行く自己を統一する能力」に期待を込めながら、いささか希望的な筆致で「柔らかい個人主義」の誕生を期待している。



 …さて、筆者がこの本を著した80年代よりも遥かに多様化が進んだ現代社会において、彼の期待する「柔らかい個人主義」は花開いたか。

そううまくは行ってないなぁ、と、情報化・多様化が更に進んだ現代に生きる一人の若者として感じる。

おそらくこの、「多様化して行く自己を統一する能力」が十分に機能していないゆえのひずみが出ている、というのが僕の見立て。…が、長くなってしまったのでそれは次のエントリで。次がようやく本論(苦笑)



 とはいえ、書かれた時期を考えると、時代の移り変わりを的確に捉えた秀逸な同時代史だと言え、筆者の卓見が伺える。自分達現代の若者世代こそ読むべき一冊だと思う。

僕ら自身の同時代史を描き出すためにも。

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